アメリカ東海岸から西海岸へ、つまり大西洋から太平洋へ抜けるのに南米大陸を迂回していくしかなかったアメリカが、運河を掘って近道をつくりたいと目をつけたのがパナマだった。それまでコロンビア領だったものを、本国の政情不安につけ込んで独立させたのが一九〇三年のこと。八十七キロメートルにわたるパナマ運河が完成するのは、それから十年後のことだった。工事に携わったには、もちろんアメリカだ。運河完成後も、運河周辺は自国の領土だと主張したばかりか、これを守るのがパナマの政治・経済の中心事業だといって、パナマの内政に干渉し続けることになる。つまり運河の管理・運営の実権はアメリカの手にあったわけだ。そして当然のように軍隊を配備していたから、独立したとはいってもパナマにしてみれば、コロンビア支配がアメリカ支配に変わっただけのことでしかなかった。こんな状況に置かれ続けたパナマでは、一九四〇年代半ばから反米軍事基地闘争が激しくなり、反米学生とパナマ軍の衝突があったり、トリホス国家警備隊司令官によるクーデターがあったりしながら、それがカーター・トリホス条約で、返還されることになっている。一九七七年になってようやく運河返還の道を開く。一九九九年十二月三十一日正午をもってパナマに返還後は、これまでアメリカ人とパナマ人から結成されていた運河委員会の手から、パナマ政府に運営権が移ることに決まってはいるものの、パナマ国家の財政危機の影響が及ばないとはいいきれない。しかも基地はなくなるものの、麻薬取り締まりセンターという名でアメリカ駐留軍は居座り続けることになっている。はたしてパナマ運河の運命が大きく変わることになるのかどうか、答えは二十一世紀に出る。
アウトレットモールやパワーセンターなどの新しい流通システムやローラーブレード、自転車などの流行をつくったのもこの地域からだ。そんな西海岸を深く旅するにはレンタカーを借り、アパートメントホテルに滞在して、ショッピングモールに通い、最新の映画を見るといった現地生活をそのまま楽しむことからだ。車社会の西海岸では、朝食はサンタモニカの海辺のホテル、昼食はウェストLAのレストラン、そして夜はメジャーリーグやコンサートという広範囲の暮らしが可能だ。あるいは夕陽が見たくなったら、サンタモニカの先のマリブ・ビーチに行って、打ち寄せる波とともに眺めるのもいい。このあたりは1階がビーチに面したテラス、2階が国道に面した玄関というコロニー(別荘村)が多く、ショッピングモールには、しゃれたレスランもある。そうした自分だけの穴場を見つけるのも、西海岸を旅する楽しみだろう。
意外に思うかもしれないが、沖縄は調味料に使用される塩、醤油、味噌の消費量が少ない。とりわけ塩の摂取量は低く、全国平均が1人1日あたりの12グラムに対し、沖縄は9〜10グラム。厚生省が推奨する摂取量に近い理想的な数値を示している。とはいえ、味わいはヒジョーに濃く感じられるのだ。その秘密はしっかりとダシをとるから。つまり、うまみが十分に利いているというわけですな。そのうまみ素材の主役がカツオ節。総務庁の「家計調査」によると、那覇市の1世帯あたりのカツオ節・削り節の年間購入金額は5567円(平成8年〜10年の平均)。全国平均の1398円の4倍にものぼる消費額で、カツオ漁の本場である2位の高知市の3074円を大きく引き離して、ダソトツの全国1位となっている。カツオは鹿児島、和歌山、静岡など黒潮沿いの流域で獲れるが、沖縄はその黒潮の源流に浮かぶ島。南西諸島近海にも魚群が押し寄せ、毎年、5〜6月から10月にかけての半年間がカツオ漁のシーズンとなる。主な特産地は宮古諸島や沖縄本島北部の本部半島で、鮮魚で食されることは少ない。沖縄近海で獲れるカツオは北方で獲れるものより脂のノリが少ないため、そのほとんどがカツオ節の原料となるのだ。これらが県内各地に出荷されるわけだが、沖縄の人たちがいかにカツオ節を多用しているかはスーパーのカツオ節コーナーに行けば一目瞭然である。売り場面積は内地とは比較にならないほど広く、薄く削った花ガツオタイプのものから厚く削ったものまで、さまざまなメーカーのカツオ節が積まれ、丸のままのカツオ節だって売られている。そう、沖縄では今でも削り節器を使っている家庭があるのだ。沖縄の人たちはこのカツオ節をぜいたくに使う。内地ではダシをとる際、お吸い物や麺類のつゆは一番ダシ、煮物や惣菜には二番ダシというふうに、ダシのとり方を使い分けるが、沖縄にはそういう食文化はない。